2015年12月27日

無視の域

 ひとに危害を加える暴力は犯罪になる。肉体的に傷を負うことが多い。言葉の暴力も精神的な傷を負う。直接浴びせる言葉から、文書・ネットなど、多種多様な暴力がある ☆イジメは子どもから大人の社会まで、多種多様な暴力として実際に存在している。イジメというソフトな言葉になっているが、実際は暴力だ。そこにもう一つ動物の牙に似た暴力がある。それは「無視」だ。相手にしないこと、疎外させること、村八分にすることだ。相手と言葉を交わさないどころか、顔も合わせない、空気のような透明感を持ち「いなかったこと」にする手だ。これがインテリにも多くいる。そして深く精神的なダメージを相手に与える効果的な方法だと思っている ☆他人の持つ価値観で、自分と全て合う人はいないだろう。村一分か二分まで否定する権利は誰にも無い。その僅かな長所も攻撃する人が多い。そのタイプの人に「イジメはいけない」などと言う資格は無い。形を変えた暴力団の一員だ ☆子どもの頃から「無視」攻撃に、色々な場面で遭ってきた人がいる。キャラクターだけが原因ではないだろう。でも暴力で仕返しをすることもなく、様々な現象を許し、忍んでしきている。しかし根底にはその暴力によって受けた傷は許さない!と叫んでいる。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 18:14| ドキュメント

2015年12月25日

教師の呪文

 他人に何かを教えるには、その内容を自分のモノにしなければならない。不消化のママ「(講釈師)見て来たようなウソを言い」では、伝わらないからだ ☆自分が過去に学んだ範疇でしか、教えられないモノだ。自分の新たな学びや発見から、他人に伝えるには時間だってかかる。もちろん日頃誰もが勉強は欠かさないでいる。自分の新たなエネルギーになるまで、納得するまで習得には時間を掛かるモノだ ☆いい話や優れた技術があると、自分でも反芻する。反芻が重なると、自分の言葉になる。しかし問題はそこに起きる。第三者のアイディアでも、次第に自分が考えて、つくった意見に変わって行くことが多いのだ。他人の考えは自分の考えになり、それが独りでに歩き始めるのだ。だから著作権の侵害にも当たる。決して「○○の話だけどね」とは言わない。自分の発見・感動を伝えているのだ ☆優れた教師でもそれがある。「基は○○だろう」と疑う事も、いつしか自分の発見に置き換えている。その呪文は次世代に役立っているからいいのかもしれないが、でも”盗作”の話には代わりないのだ。境界線がないことと、因果関係が明確でないこと、そこに目に見えた利害が生じていないために余り問題にされていないだけだ。オリジナルは模倣からというものの、自分のモノだと思っているコピー部分が闊歩している現実は、反省しなければいけないだろう。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 22:51| ドキュメント

2015年12月04日

奇蹟の作曲(3)

 音楽史に残ってきた「作曲」は、一人が書き記した音楽だ。共作は少ない。民俗音楽では長い間仲間とつくり合った結晶が多い。だから作曲は個人的な生産だとも言える ☆作曲は個人でも、集団でもつくること、となるとコンセプトが変わる。色々な作曲があっていいが、これで「みんなでつくる」となるとアートの仲間外れにされそうだ。それを古典音楽のように評価されるとなると、今世紀中に起こるだろうか疑問だ。そのくらい固定概念は深い
 ☆子どもでもつくれると以前に言った。何もない所からは生まれない。情報や手本と、その仕組みを説く必要はある。楽器だって知らないが、この頃はコンピューターが教えてくれる。簡単なメロディーやリズムのパターンを見つけ、繰り返したり、テーマの応答などの組み立てを考えると、実際に音楽が立ち上ってくる。模倣から創造で、聴きながら納得する世界を創り合えば短くても音楽の構造をもってみんなに聴かせることは直ぐ出来る ☆子どもの感性は豊かだ。面白い、聴いたこと無い、変わっている、などのあそびからオーケストラの響きに誘われて行く。コツが掴めれば、誰もが作曲家になって楽しむ事が出来る。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 19:34| ドキュメント