2016年05月03日

適応障害

 学校でも会社でも、いや社会そのモノにも人には”適応障害”がある ☆大きな括りで言えば、人は大なり小なり”適応障害”があって、それを誤魔化したり、自分に言い聞かせたりして生きているようだ。自覚があるのに、自分がいけないと思って責めている人が多い。自分や社会に責任があるのではなく、元々適応出来ないのが人間で、一般的な教育により説得されて適応の雰囲気に包まれた安心感で生きているだけなのだ。だから適応障害を感じる人ほど正直で自然人なのだ ☆現世ではそれでいい。その次が問題だ。あの世で適応出来なかったらどうなるのだろうか?その障害の報告は何処にも無い。みんな仏様になれるような説法だらけだ。本当だろうか?
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年04月04日

オープン会館

 文化施設の活動は五年で様変わりしていく ☆四半世紀前は、一流のプログラムを買い取る企画が大変だった。十五年前後では、市民参加やアウトリーチ事業の展開に躍起になっていた。市民文化の育成や地域の人財育成が、文化力を生み育てる原動力になっていた ☆現代もそれは望まれている。その成果が地域の枠を超えて文化の発信になることが期待されている。それプラス「交流の場」としての役割が増えて来ている。大学・高校では受験生の募集に精出している。少子化の波が文化にも影響するところだ ☆そのためには、大学がオープンキャンパスで次世代(受験生)と交流するように、文化施設も幅広く大学受験生だけでなく、高校・中学まで含め、また将来の地元企業への就職を兼ねた交流を早くする必要が生まれてきている。そこで”オープン文化施設”が必要になってきている。特定の大学・高校・クラブ・企業だけでなく、様々な人びとが行き交うスペースだ。資金を掛けず、持ち寄りで”文化”をテーマに交流する。それが文化施設の残された役割になっていくようだ。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化事業

2016年03月22日

変幻自在

 公立文化施設の文化事業概要は、三年待たずに変わって行く。どの施設も「世は無常だ」 ☆以前は高価な買い取り企画がメインにあった。その後市民参加や市民文化の育成、出前企画が起こり、会館内外で活発に事業が展開された。栄枯盛衰とは異質な行政の意向やシステムの変化、時代や市民ニーズ、資金の獲得方法の違いによって、文化会館も変わりつつあった。「指定管理者制度」の導入もあり、施設の運営も事業そのモノも大きく変わったと言える ☆三年現場から離れると、情報の受発信から、未来の展望も分かりづらくなる。しかし一つ言えるのは、文化施設だけの文化事業から、地域の様々な人や組織と連動した企画による施設の生かされ方がこれから必要とされているようだ。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 23:08| 文化事業

2016年03月14日

即死回数

 仕事に限って言う。♪切られて死んだの五万回、という歌もあった。傷だらけの人生という言葉もあった。仕事に限らず瞬時に切られることが人生ではよくあることだ。サムライ時代では即死だ ☆考えたら何回死んだことだろうか?無防備なために、失言の為に、闇打ちのような瞬間に、誤解を持たれて・・・言い分が沢山あるのに、問答無用で息の根を止められてしまう。誰にでもあったことだろう ☆それでも生かしていてくれる宇宙の生命は凄い!即死の数をエネルギーにする人もいる。ということは即死の回数が多いことも大切だ、ということか?しかし出血サービスのような例も無いではないが・・・
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 22:52| ドキュメント

2016年02月28日

自虐ネタ

 川柳など特にそうだが、公募の受賞作やウケる作品に自虐ネタが多い ☆夫婦それぞれの自虐を笑う。それがウケるから受賞する。読者もニンマリする。どうしてだろうか?何が面白いのか私には分からない。夫婦のマンネリを笑うことによりストレス解消なのか、ネタを喜ぶのか、レベルを下げると支持する人口が多いのか? ☆キャッチ・コピーなども、日頃考えている自虐に共感をことが多い。自虐から何かが生まれるかどうかだが、何だかオナラを笑うようなレヴェルに思う。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 00:10| 日記

2016年02月01日

合唱指導

 ソロ楽器の演奏・歌唱も、合唱団を歌わせることも、表現者の歌そのものだ ☆ピアノを弾いても、演奏者の音そのものが出る。歌い方も楽器を通して出る。歌っているフリしているが、全く歌えないピアニストもいる。アンサンブルになると指揮者の歌い方に統一される。もちろん個々が歌っている表現を全体としてまとめる役だが、指揮者の歌い方の元にまとめられることが多い ☆高齢のベテラン指揮者が幾つもの”おかあさんコーラス”を振っていた。どこも同じ歌い方で、日本の叙情歌が切れ切れの浪花節に聞こえた。誰も注意しないベテランの陥る”つぶやきソング”がそこにはあった。別の所では奇妙な指揮をしていた。歌とまるで違う動作が違和感を覚えた。理由を追い求めたら、故人の合唱指揮者の部分的なマネをしているだけで、歌とは関係無いようだった ☆歌うこととそれを表現することは、音楽の基本に当たるが、その簡単なことがとても難しいことだと再度思い知らされた。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 10:16| ドキュメント

2016年01月23日

教科書謝金

教科書にまつわる謝金のやり取りが問題になっている。新しい教科書への会議・意見に対して、先生が教科書会社から謝金を受け取っていた問題だ ☆教科書会社は採択されるか否かで社運にも関わる問題だ。だから営業対策でルール違反ギリギリの攻防をしている。今に始まったことではない。私の目の前でも起きていた日常行事だった。会社側が営利目的だと責められるが、教師の方にも問題がないわけではない。当然と思って自ら手を出して暗に要求した人もいた ☆畢竟、直接的な謝金は避けるようになる。意見を反映させる会ではない企画にご招待して、直接関係無い話の車代やお弁当代に封筒に入る程の金額を入れて渡すことになる。阿吽の呼吸、というヤツだ。また日頃の付き合いで、何かとお世話することによっての"密約"も生まれて来る。採択に影響を及ぼす各地のボスは飛び交う資金の波を上手に泳ぐことになる ☆最近は"小子化"で、中高から専門学校・大学まで受験生の奪い合いだ。ここでもボスがレフリーしていたりする。どこまで行っても人には"欲"があり、プライドがあるから、この種の問題は無くならない。困ったモンだ。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 19:38| ドキュメント

2015年12月27日

無視の域

 ひとに危害を加える暴力は犯罪になる。肉体的に傷を負うことが多い。言葉の暴力も精神的な傷を負う。直接浴びせる言葉から、文書・ネットなど、多種多様な暴力がある ☆イジメは子どもから大人の社会まで、多種多様な暴力として実際に存在している。イジメというソフトな言葉になっているが、実際は暴力だ。そこにもう一つ動物の牙に似た暴力がある。それは「無視」だ。相手にしないこと、疎外させること、村八分にすることだ。相手と言葉を交わさないどころか、顔も合わせない、空気のような透明感を持ち「いなかったこと」にする手だ。これがインテリにも多くいる。そして深く精神的なダメージを相手に与える効果的な方法だと思っている ☆他人の持つ価値観で、自分と全て合う人はいないだろう。村一分か二分まで否定する権利は誰にも無い。その僅かな長所も攻撃する人が多い。そのタイプの人に「イジメはいけない」などと言う資格は無い。形を変えた暴力団の一員だ ☆子どもの頃から「無視」攻撃に、色々な場面で遭ってきた人がいる。キャラクターだけが原因ではないだろう。でも暴力で仕返しをすることもなく、様々な現象を許し、忍んでしきている。しかし根底にはその暴力によって受けた傷は許さない!と叫んでいる。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 18:14| ドキュメント

2015年12月25日

教師の呪文

 他人に何かを教えるには、その内容を自分のモノにしなければならない。不消化のママ「(講釈師)見て来たようなウソを言い」では、伝わらないからだ ☆自分が過去に学んだ範疇でしか、教えられないモノだ。自分の新たな学びや発見から、他人に伝えるには時間だってかかる。もちろん日頃誰もが勉強は欠かさないでいる。自分の新たなエネルギーになるまで、納得するまで習得には時間を掛かるモノだ ☆いい話や優れた技術があると、自分でも反芻する。反芻が重なると、自分の言葉になる。しかし問題はそこに起きる。第三者のアイディアでも、次第に自分が考えて、つくった意見に変わって行くことが多いのだ。他人の考えは自分の考えになり、それが独りでに歩き始めるのだ。だから著作権の侵害にも当たる。決して「○○の話だけどね」とは言わない。自分の発見・感動を伝えているのだ ☆優れた教師でもそれがある。「基は○○だろう」と疑う事も、いつしか自分の発見に置き換えている。その呪文は次世代に役立っているからいいのかもしれないが、でも”盗作”の話には代わりないのだ。境界線がないことと、因果関係が明確でないこと、そこに目に見えた利害が生じていないために余り問題にされていないだけだ。オリジナルは模倣からというものの、自分のモノだと思っているコピー部分が闊歩している現実は、反省しなければいけないだろう。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 22:51| ドキュメント

2015年12月04日

奇蹟の作曲(3)

 音楽史に残ってきた「作曲」は、一人が書き記した音楽だ。共作は少ない。民俗音楽では長い間仲間とつくり合った結晶が多い。だから作曲は個人的な生産だとも言える ☆作曲は個人でも、集団でもつくること、となるとコンセプトが変わる。色々な作曲があっていいが、これで「みんなでつくる」となるとアートの仲間外れにされそうだ。それを古典音楽のように評価されるとなると、今世紀中に起こるだろうか疑問だ。そのくらい固定概念は深い
 ☆子どもでもつくれると以前に言った。何もない所からは生まれない。情報や手本と、その仕組みを説く必要はある。楽器だって知らないが、この頃はコンピューターが教えてくれる。簡単なメロディーやリズムのパターンを見つけ、繰り返したり、テーマの応答などの組み立てを考えると、実際に音楽が立ち上ってくる。模倣から創造で、聴きながら納得する世界を創り合えば短くても音楽の構造をもってみんなに聴かせることは直ぐ出来る ☆子どもの感性は豊かだ。面白い、聴いたこと無い、変わっている、などのあそびからオーケストラの響きに誘われて行く。コツが掴めれば、誰もが作曲家になって楽しむ事が出来る。
posted by Dr.ひ〜ろ〜(坪能克裕) at 19:34| ドキュメント